忠臣蔵 赤穂浪士の義挙が理解出来なく想ふ。
この季節に思うことがあります。
暑い夏には体が水分を要求します。
寒い冬になると、なぜか日本人は赤穂四十七士の義挙を思い出すようです。
個人的には昔からずっと思っていることがあります。
これが私の赤穂事件に対する主観です。
赤穂浪士がチヤホヤされるのが結構気分が悪いんですよ。
毎年この季節に、TV等で忠臣蔵に触れるたびに思うことなので、個人的心情を吐き出してみたいと思います。
まずはシンプルにあらましを。
元禄十四年、旧暦の三月十四日、将軍徳川綱吉は江戸城に朝廷からの使者を迎えて歓待していました。
この接待の饗応役だったのが、高家衆の吉良上野介と赤穂藩主の浅野内匠頭でした。
勅使をもてなしている最中、江戸城内の松の廊下にて、浅野内匠頭が吉良上野介を三度斬りつけました。
不幸中の幸いにも最悪の事態とならずに取り押さえられました。
この一件で、浅野内匠頭は幕府より即日切腹を命ぜられ、赤穂藩も取り潰しとなりました。
これを許すまじと、浅野家取り潰しにより浪人となった旧赤穂藩士たちが、江戸本所の吉良邸に討ち入り。
結果、吉良上野介と吉良の家臣十数人を討ち取りました。
その後、浪士たちは幕府に自首をして切腹して果てました。
私の主観も含めて背景も考えます。
主観を排除してシンプルに事実だけを上記してみたつもりです。
次は「赤穂浪士って基地外やん。」て思ってしまう私の主観も含めて背景を考えてみたいと思います。
とても重要な儀式、儀礼の真っ最中だった。
まずは朝廷からの年賀返礼の使者を迎えていたことです。
幕府には権力があります。
統治をする政治的な権力と、統治をするバックボーンとなる軍事力を持っています。
それを認めて征夷大将軍職という権力と権威を与えてくれるのが朝廷です。
下剋上の覇者である徳川将軍家は、それまでの幕府以上に朝廷との関係を重んじていたように思います。
そして、勅使の接待役を仰せつかったのが、吉良と浅野です。
吉良家は高家衆かつ三河譜代。
旗本の中で名家、もしくは伝統的な名家を旗本として、有識故実や礼儀作法に精通していないと出来ないような式典を執り行う役職です。
饗応役を仰せつかった大名を指導する役割もあります。
吉良家は足利一門です。
その他の高家には、武田、今川、一色、六角などの錚々たる名家たちが並びます。
また、上野介の吉良家は三河出身です。
徳川家臣として、天下獲りなど想像も出来ない時代から徳川に仕えてきました。
伝統的な名家であるばかりでなく、長年に渡って徳川に尽くしてきた譜代の家柄でもあるのです。
それもあってか禄高も多く、高家筆頭格と言えます。
戦国時代後の江戸時代には、下剋上によって成り上がった礼儀知らずの田舎大名が溢れていましたから、伝統的名家の高家衆の役割は大きかったのではないでしょうか。
浅野家は尾張出身、元は織田、豊臣の家臣。
信長、秀吉に仕え、関ヶ原合戦で東軍につき江戸時代に家名を存続させました。
浅野家の旧主だった豊臣秀吉は、自身の出自が低い地位であったせいもあり、自分に付き従う全国の大名に対して領地や褒美など大盤振る舞いをしました。
それが豊臣政権を圧迫し、大名たちの不満を逸らすためにも新たな領地を与えなければならなくとも、与えるべき土地もなく、新たな領土を大陸に求めざるを得ない面がありました。
それを反面教師とした徳川幕府は、些細な事を咎めては大名家を取り潰し、土地をやり繰りしました。
また、関ヶ原などで多大な貢献があったとしても、外様大名に対しては厳しくあたって幕府の安泰を図りました。
浅野家と同じ尾張出身の豊臣系の有力大名である加藤清正家や福島正則家などは、江戸時代初期にあっさりと取り潰されました。
豊臣家が方広寺鐘銘事件で言いがかりをきっかけに潰されたのと同様に、信用のない外様大名たちも理不尽な言いがかりで改易される恐れがありました。
江戸時代の全国の大名たちは、日々落ち度がないように汲々として慎重に過ごしていました。
前代未聞の軽挙。
そんな中で、浅野内匠頭は朝廷からの使者の饗応役を任されます。
高家筆頭格で朝廷との誼も深かったと思われる吉良上野介は、当然の如く指導的立場に立つことになります。
元禄十四年三月十四日、勅使を歓待している真っ最中に浅野内匠頭が吉良上野介を斬りつけるという軽挙にでました。
軽挙と呼ぶのはあまりにも浅はか過ぎる行動だと思うからです。
まず、場所が悪すぎます。
将軍の居城たる江戸城内です。
江戸城の平穏を守るのも大名の役割でしょう。
江戸城内で抜刀するなど軽挙以外の何物でもありません。
次にタイミングが悪すぎます。
大切な勅使をもてなしている最中です。
その重大な式典を、接待役が殺人未遂事件を起こして台無しにしてしまったのです。
将軍、幕府の面目は丸つぶれです。
江戸城内で刃傷沙汰は当然死刑相当ですが、それと同時にタイミングまで悪すぎる。
正常な知性、理性、判断能力がなかったのではないかと疑問を持ってしまうほどの暴挙です。
想像を絶する行動からは、浅野内匠頭という人物が大名という指導的な立場に立つだけの素養がない人物だったのではないかと疑わざるを得ません。
また、そのような人物に大事な役目を与えた幕府にも疑念を抱きます。
映画やドラマでは、吉良上野介が浅野に嫌味を言ったり、いじめたりしますが、そのようなことがあったとしても斬りつけてはいけませんよね。
普通は我慢すべきことです。
腹が立つからと言って人を斬ってはいけないでしょう?
天下の城で流血騒ぎはあってはならないでしょう。
勅使の接待という式典を潰してはいけないでしょう。
自分が軽挙妄動に出れば、赤穂浅野家は改易され、家名を汚し、家臣たちを路頭に迷わせます。
ありとあらゆる理由で起こってはいけないはずの想像を絶する軽挙であり暴挙であると言えます。
どうしても我慢がならないのであれば、せめて場所と時間を変えるべきでした。
それでも、将軍の家臣を殺して無罪などありえないのですが。
現代でもそうでしょう? 吉良が悪いという人もいますが、何があったにせよ殺そうとしたらダメですよね。
赤穂四十七士が義士なんて狂ってる。(私の主観)
昔の出来事を現在の価値観で図ってはいけないと言います。
私もそう思うのですが、この件は敢えて現在の価値観も踏まえたいと思います。
どんな事情があったにせよ、天下泰平の世において殿様がよその殿様を斬りつけた。
斬りつけた側の家臣からすると、「うちの殿が乱心してしまい、ご迷惑をおかけしました。」って謝るのが普通じゃね?って思います。
それが、「喧嘩両成敗の世において、吉良はのうのうと生きている。許せない。仇討ちじゃあ!」って基地外地味てません?
まず、喧嘩両成敗が間違ってるけど、幕府が下した裁定に文句言うなって。
あと喧嘩じゃねえし。庶民じゃねえし。おたくら大名だよ。大名に喧嘩両成敗を適用しろって馬鹿ですか。
大名が斬りあいの喧嘩しちゃったら戦争になるでしょうが。
天下泰平の江戸時代に、上杉の殿が武田の殿を斬り殺した。喧嘩両成敗ってそんなわけないでしょ。
喧嘩じゃねえしそんなの。暗殺であり戦争の前段階でしょ。政治的立場にいる人の喧嘩は政治的意味をもつ。
それを喧嘩両成敗適用しろってアホですか。
適用して欲しければ、下級武士なり町民なり農民になってからにしましょう。
仇討ちじゃねえし。
赤穂浪士は主君の仇を討った。天晴。ってアホですか。
「俺の弟があいつに殺された。だから俺はあいつを殺す。」
これが仇討ちでしょう。
吉良は襲われて傷を負いながら逃げただけ。ただの被害者。
斬りつけられる被害に会いながら何故か仇として恨まれる。踏んだり蹴ったりですね。
「武士ともあろうものが背を向け逃げるとは。」こんなの「重要な仕事中に刃傷沙汰を起こすとは。」ですよ。
迎え撃って逆に斬り殺したとして、それが正しいですか。時と場所をわきまえるのが上級武士でしょ。
浪人でも下級武士でもないんですから。大名と高家旗本。天皇の使者を接待してる最中ですよ。
しかも六十代の当時としてはバリバリのお爺ちゃんに武士らしく戦えって無茶言うもんじゃないですよ。
当時三十代半ばの浅野もよくぞお爺ちゃんを斬りつけられましたよね。
その行為のどこが武士らしいのでしょうか。
誰が浅野内匠頭を殺したか。
死罪を免れ得ない罪を犯したから切腹を命ぜられた。
自分の責任です。自滅といえます。
赤穂浅野家は断絶し、家臣たちは職を失った。誰を恨むべきか。
愚かな主君を恨むべきでしょう。
吉良に責任があるとは思えないし、幕府の裁定が間違っているとも思えない。
江戸時代には数多の大名が改易となりましたが、こんなに当然の理由で改易となった家もないでしょう。
どうしても不服なら、吉良ではなく裁定を下した幕府を恨むべきでしょう。
とはいえ、そこに正義を感じませんが。
吉良邸討ち入りは現代で言うテロ行為。
旧赤穂藩の浪士たちは、吉良が不問に付されたことに不満を持ちました。
そして、定説では四十七人と言われる大人数で吉良邸を襲い、吉良上野介以下、十数人を殺害しました。
不満がある現状に対して、暴力による現状の変更行為を行ったのです。
これをテロと呼ばずしてどう呼べば良いのでしょうか。
赤穂浪士たちのこの行いは、現代まで連綿と義挙として伝えられてきました。
ですが、いったいこの行為のどこら辺に義があるのでしょうか。
切腹した浪士たちの命と引き換えに、どのような現状変更が行われたのでしょうか。
吉良上野介と数十人の家臣の死という結果が残されました。
どの辺が義なのか私にはわかりません。
浅野切腹と改易の裁定をした幕府を恨み、幕府と戦い転覆させて浅野幕府でも作ればよかったのではないでしょうか。
義かどうかは幕府の経営次第でしょうか。
それでもそのほうがまだマシな現状変更行為な気がします。
自分たちが幕府を運営すればあんな裁きはしないぞって。
何故にこんな行為が三百年に渡って持て囃されてきたんだろうか。
義挙だって言いますが、まずは浅野の行いが酷すぎます。
そこにマウントしちゃった浪士たちに義を感じません。
「主君が迷惑かけてすみません。」と主君の死後も、その罪の償いを代わりに行う方が義を感じます。
何故にこんな行為が三百年にも渡って持て囃され、映画やドラマや舞台や小説にと大人気なのか不思議でしょうがありません。
まずは、単純に「火事と喧嘩は江戸の華」だったのでしょうか。
そして、真田幸村伝説が盛り上がったように、いつの時代にも現体制に対するアンチたちが存在して、反体制的な行為に拍手喝采したのかも知れません。
また、当時の江戸町民にパブリック、公の精神が乏しく、公共の利益よりも自分たちの立場でモノを見て語ったのかもしれません。
ていうか江戸時代ですし、三百年も前なんだからそりゃあねえ。
我々日本人はその子孫なわけですから、民族的にはパブリックの精神に欠けるところがあるのかもしれません。
より穿った見方をしてみる。
頭おかしいこと書いてんじゃねえよって思われている方も多いでしょうが、より穿った見方をしてみたいと思います。
浅野内匠頭という人物ですが、時と場所をわきまえずに歴史的な暴挙を行ったことは事実です。
この事実から、知性、理性、精神、様々な面で大名として資質がなかったのではないかと思えてしまいます。
松の廊下での行動からは、正常な判断力を有する人物には思えないのです。
そのような人物を朝廷の使節の接待役に任じたことは幕府に責任があると思います。
いや、穿った見方をすると宣言したのですから、ハッキリと堂々と言いたいことを言います。
愚者である赤穂藩主に大役を任せ、失態を起こさせ、赤穂藩を取り潰すつもりだったのではないか。
また、伝統的名家の高家衆の多くは、その性質上ほとんどが外様です。
多くは室町時代の大名家です。
そんな中、三河譜代の徳川家の家臣である吉良がこの件に関わることになった。
浅野の問題行動を引き出すため、嫌味を言ったり意地悪をしたり、袖の下を求めたりといったことをワザと行ったのかもしれない。
そして想定通りに浅野は問題を起こし改易をされた。
吉良は斬りつけられるという散々な羽目になり、もちろん労を労われて御咎めどころか将軍の見舞いまで得た。
それに我慢がならない浅野旧臣たちが暴発した。
なんてもちろん何の根拠もない妄想に過ぎませんが。
最後に。
長年溜まっていたことを書きたい放題書いてしまいました。
おかげでずいぶんと感情的で汚い文章表現もありました。
また、世間一般の忠臣蔵感とのズレも大きいかもしれませんが、社会の底辺に這いつくばった目線の低さによるズレと理解いただければ幸いです。
赤穂藩関係者子孫の方々と赤穂浪士ファンには申し訳ありません。
そして、吉良家の関係者の子孫などではないことを明言しておきます。
恥ずかしながら、私の先祖なんて当時は水飲み百姓だっただろうと思います。