底辺ちゃんねる。

底辺住民の暮らしぶりと思考を晒します。

山本勘助伝説を想ふ。

歴史は嘘で出来ている。

歴史認識を改めよとか、歴史認識を共有せよ、などと高らかに叫ぶ人たちがいる。歴史とは何ぞやということが全く分かっていない人たちである。歴史というのは過去の積み重ねである。教科書に載るような歴史を積み重ね作ってきた人たちは、決して私のような市井の小市民ではない。権力者たちであり、為政者たちである。自分たちに都合の悪い話を広めたいと思う人間がどこにいるだろうか。可能であれば、自分に都合の良い話だけを拡散したいと思うのが人間ではないだろうか。そして、それを実行できる立場にいたのが、歴史を作ってきた権力者たちである。それは政権の安定のためであり、社会を安定させるためである。何も悪びれることなく、嘘を積み重ねて子孫に伝えてきたのが人類の歴史だ。そして、そのような権力者たちの言い分を信じず、自分の価値観によって思うことも、個人にとっての歴史認識である。

真実の歴史など何処にもない。真実は人間の数だけあると言える。ひとつの歴史の真実を共通の価値観によって共有せよ、などというのは詐欺的詭弁にすぎない。

とはいえ、歴史的事象の真実に近づくことは歴史研究者の職務だ。大事なのは真実に近づくことであり、真実に辿り着くことではない。真実に辿り着いたなどと言っている研究者がいたならば、彼は詐欺師であろう。

日本の歴史教育は狂っていた。

これは私の学生時代の話であり、現在に於いては改善されているかもしれません。ですので、狂っていたと過去形で書かせていただきます。

私の時代の歴史のテストは「長篠の合戦」の文字を見れば、「鉄砲の威力」と書いておけば正解でした。

狂ってると思いませんか。野球で例えれば、「巨人阪神戦」と問題がでれば、「坂本のホームラン」と答えれば正解であると言っているようなものです。菅野が完封をしたことも、そのピッチングを支えた小林の好リードも、マギーの超ファインプレーも、阪神打線の貧打も、メッセンジャーの乱調も、坂本のホームランを後押しした風も、あらゆる要素を無視して坂本のホームランがすべてだと書きなさいという教育です。真実とは程遠い正解を暗記しなさいという教育。こんな歴史教育を受けた人間の多くが、正しい歴史認識をもてるはずがありません。それは日本だけではなく、日本に倣った東アジア全体が抱える問題だと思います。

だからこそ、歴史認識を共有せよなどという頓珍漢なことを恥ずかしげもなく言えてしまうのです。

さきの巨人阪神戦の問題で言えば、小林のリードも、マギーのファインプレーも正解でしょう。一つの答えを決めてしまい、歴史認識を共有するという行為は、個人の価値観を否定し、言論思想を統制する暴挙だと思います。学校のテストでは、正解を一つに定めないと、対応が難しいということは理解できます。ですが、歴史認識のような一つの答えを導くことが適切であるとは思えない問題に対しては、学生の多様な独創性、創造性を育み、また個人の価値観を尊重するような教育が望ましいと考えるのはおかしなことでしょうか。

山本勘助の伝説。

上杉といえば直江。龍造寺といえば鍋島。伊達といえば片倉。

では、武田といえば? ほとんどの日本人は「山本勘助」と答えることでしょう。

当然ですよね。NHK大河ドラマに始まり、多くの小説や映画やドラマに登場する主要人物ですから。そんな知名度の高い歴史上の人物である山本勘助ですが、本名(いみな)となるとあまり知られていないだろうと思います。

山本勘助晴幸

というそうです。後に出家して道鬼斎。しかし、この晴幸という諱(いみな)がちょっと不自然極まりないですよね。後世の人物がとってつけたような名前です。小幡勘兵衛のような学のある人物ではなく、その辺の町民がつけたかのような名前に見えます。

「幸」はおなじく武田で高名な真田からとっちゃえ。もう一文字は、御屋形様からいただいちゃえ....信幸って真田になっちゃった。じゃあ晴信の「晴」をいただいちゃえ。晴幸でどうよ!

こんな妄想してしまう安易な名前ですよね。

ところで、目上の者が、諱から一文字を分け与えることを偏諱と言います。勘助が属する武田家の場合だと、多くの家臣が「信」の文字を偏諱賜っています。信の文字は、代々武田家で受け継がれたものであり、格が高いと考えられます。信玄の時代だと「昌」を賜る家臣がより多い印象で、信虎時代だと「虎」を賜った家臣が多かったようです。「信」は武田の家を表し、もう一文字が当主個人を表すといったところでしょうか。

ところで、信玄統治時代の武田家臣団において、「昌」の文字を家臣に与える偏諱として使用されたのには訳があります。信玄の諱は「晴信」ですが、「晴」の文字は、

時の将軍、足利義晴から偏諱賜ったのであり、おいそれと家臣に分け与えられるものではなかった。そのため、中興の祖ともいえる武田信昌から一文字を与えるようになった。

と考えるのが自然であろうと思います。また、高貴な身分の人物と、名前が文字が被らぬように配慮することも「偏諱」と言ったようです。

山本勘助の諱である「晴幸」は、このような視点から、実に安っぽい創作の匂いがするのです。

伝説的人物であれば、名前くらいは伝わるでしょ。普通。

 

上杉といえば直江、龍造寺といえば鍋島、伊達といえば片倉

三家と三名を例に挙げましたが、私がイメージするのは、「宰相」もしくは「家宰」です。御屋形と家臣団から高い信任を得て、政治に軍事に大きな裁量を揮う人たちです。このイメージであるならば、

武田といえば、山縣昌景であるべきです。

朱印状から、政において大きな裁量を持っていたことが確かであり、軍事においては寄子と与力を合わせ、総動員力は数千に達したと思われ、当時の徳川家にも匹敵する軍事力を有していたと考えます。婚姻も積極的に行っており、私などから見ると、実に危険な存在に思えるくらいなのですが、有力な与力を山県に預けたのは信玄なわけですから、信任が厚かったということでしょう。また、家中において縁戚関係を広げることも咎められることはなかったのでしょう。こういう人物であるからこそ、信長公記において、設楽が原において討ち取った首の一番目に数えられているのでしょう。それが当時の認識であったはずです。

ところが、山本勘助伝説のせいで存在が霞んでしまい、ドラマや映画でもあまり活躍がみられません。46歳の働き盛りで亡くなられたにも拘わらず、黒澤監督の影武者では、大滝秀治おじいちゃんでした。(笑)

 

さてさて。長文で、前半戦にはグダグダと屁理屈をのたまって。

結局のところ何が言いたいのかというと。

山勘はもう飽きた。山縣昌景に陽の目をプリーズ。 ....たったそんだけ。

 

 

そういや文才のなさで諦めてたけど、ヤマケンさんの時代小説書けたらなあって思ってた時期があった。今は駄文しか書けないけど、ブログを書くことでスキルが身についたら書きたいなって改めて思った。思いっきり創作が入って、こんなんファンタジーやんって感じになるけど。