独裁という言葉に想ふ。
日本人は大袈裟な表現を得意とする民族。
それは今に始まったことではありません。太古の昔からそうです。
土偶の姿を見てください。デフォルメの塊といえます。葛飾北斎の波などもそうです。
日本人は何かを表現しようとする際に、目先の写実性を追い求めません。心の目に見える印象を表現しようとします。
H〇NTAIという言葉があります。HEN〇AIというこの言葉は今では世界に通じる共通言語と化しているようです。世界が人たちが持つ、この言葉に最もふさわしいヴィジュアルイメージといえば、「触手」ではなかろうかと思います。HE〇TAI作品中において、女性の体に纏わりつくタコの足のようなアレです。アレも歴史のある日本の伝統的なものといえます。浮世絵に、タコの足が女体に纏わりつく様が描かれており、200年の歴史があります。
あまりにも、写実性からかけ離れた作品たちです。実際には目にすることが叶わない非現実的な光景を絵にしているのですから。心の中にある印象のみを頼りに描いた作品です。
写実性を追求せず、印象的な表現を追い求めた日本の芸術作品は、やがて欧州にて高く評価されます。それらの作品群に影響を受けた欧州の画家たちによって印象派が花開きます。
現在の日本国内においても、漫画、アニメ、ゲームなど現代のポップカルチャー、サブカルチャーとして連綿と歴史が紡がれています。歴史というのは線です。決して点ではありません。太古の昔から紡がれてきた、イメージをデフォルメして表現する伝統が、現在においては日本を代表する強力なコンテンツとなっています。それは日本の対外的イメージアップに多大な貢献をしており、観光客の増加や日本食ブームの到来にも大きな影響を与えています。良いことづくめのように思えます。
大袈裟な表現を芸術ではなく、論説、論調に使えばどうなるか。
日本人が得意とし、DNAに刻み込まれたデフォルメを芸術分野以外に持ち込めばどうなるか。政治などに持ち込めば甚だ厄介です。今日は、報道や政治主張などに使われた場合について考えてみたいと思います。実例を一つあげてみます。
私は関西に住んでいます。何年か前にTVで何度か耳にした大袈裟な表現
「橋本徹は独裁者」
これについて考えてみたいと思います。橋本氏が知事、市長だった当時は、このフレーズをTVで耳にすることがありました。個別の例ついては、今となってはなかなか覚えていませんが、はっきりと覚えているものもあります。街頭インタビューで市民に対し橋本氏の印象を訪ねた際に、2,3人の市民が続けて橋本徹は独裁者であり云々と答えるものでした。TV局の意図的な編集などについては省きます。
今日考えたいのは、このような正確性に基づかない、印象による論調、論説が如何に危うく、無責任であるかについて考えたいと思うのです。
橋本徹は独裁者だったのか。
「橋本徹は実際に独裁者だったんだ。大袈裟な表現などしていない。」
そうおっしゃる方は多いだろうと思います。では、独裁者とは一体どういう人のことをいうのでしょうか。私が思う独裁者像を端的に申せば、
強大な力を背景にして、独善的に政策を執行する者。
強大な力とは、基本的に軍事力のことです。軍隊を掌握し、意のままに操ることができ、国の舵取りも意のままにする。もっと究極的にわかりやすく言えば、
自分以外の人間に銃口を突きつけて、文句を言わせずに好き勝手する。
これが独裁者ですよ。わかりやすいでしょ。北の将軍様もそうでしょ。軍を掌握しないと独裁者にはなれませんので、「~中佐、~大佐」なんていう独裁者がいたりするわけですよ。
文句いうやつは殺すぞ。で、ホントに殺しちゃう。見せしめにしなきゃね。
これが独裁者ですよ。独裁体制を築くためには逆らえばどうなるかを見せる必要があります。
橋本氏が何人殺したんですか。それ以前に軍事力を持っていましたか。
日本人の大袈裟な表現。
あいつゲームうまいな。
神かよ。
何気ない日常での、大袈裟、紛らわしいはいいんじゃないですか。空気読んで楽しければ。
A子の彼氏わがままじゃね?
独裁者かよ。
これ正確にいうと「独善的なやつかよ。」てことだと思います。橋本氏に対してもそうです。マスコミの方や、橋本氏と意見が対立する方が思っているのは、
「橋下徹は独善的なところがある。」これが正確な表現ではないでしょうか。
政治家が国会の場で言ったり、事実の報道をすべきマスコミがしたり。責任ある立場の方がしかるべき場所で論説をしたり。そのような場合は、事実を正確に表現するように努めるべきではないでしょうか。
安倍晋三首相も。
安倍首相も独裁者と呼ばれることが度々あるようです。安倍首相も、橋本氏も、なんら強大な力は持っていません。仮に持っていたとしても誰も気づきません。行使していませんから。力はただ持っているだけでは影響を与えることは叶いません。力というのは行使して見せつけなければ意味がありません。
昔から、戦争のない平時であっても、世界各国は閲兵式なんてのをよくやるのはそのためでしょう。英国でロシア人が干からびた死体となって発見されたのも一端でしょう。
ところで
「数のチカラによる横暴」
これ最近よく聞きます。誰もがお気づきの通り論外です。少なくとも民主主義社会に於いては。共産主義者はこういう主張になって当然なのでしょうが、ならば数のチカラが及ばない国に移住すればよいのです。数のチカラが及ばない国こそ、軍のチカラによる横暴をおこなっている独裁国家だったりしますけどね。
数のチカラとは軍事力ではなく、民意です。民衆の支持を批判する事こそ、独りよがりで独善的と言えるのではないでしょうか。
無責任な行為。
このように、正確な表現を心掛けずに、大袈裟で衝撃的な表現方法を敢えて選ぶことは非常に無責任であったりします。
日本のマスコミが「安倍首相が独裁的な政治手法を行っている。」と海外に向けて報道したとします。
日本の実情をよく知らない外国人であれば、こう解釈することでしょう。
安倍と言うやつは悪いやつで、国民の命を奪い、自由を奪い、国家と国民を私物化している。日本人が平和に普通に暮らせるようになるためには、安倍政権を打倒するしかない。そのためには、安倍晋三が持つ日本の軍事力を無力化しなければいけない。つまりは日本と戦争をして勝つことが日本人の解放に繋がる。正義のために日本と戦争すべし。
とんでも論調に思えますが、日本の実情を全く知らない人物が、「安倍晋三は独裁者」をまともに受け取ればこういうことになるでしょ。悪いのは上記の論調ではありません。正確な表現を心掛けない、日本側の無責任さです。それとも、こうなって欲しいのでしょうか。日本の印象を実像とはかけ離れたものにして誰が得をするのでしょうか。ならば戦争はその人たちとやって欲しいものです。
最後に、大袈裟で衝撃的な表現の言質を好んで用いるのはどういう人物か。その道のプロフェッショナルといえば、
詐欺師と煽動家です。
くれぐれも注意しましょう。