底辺ちゃんねる。

底辺住民の暮らしぶりと思考を晒します。

1945年8月6日を想ふ。

吹っ飛ばされた祖父

母方の祖父は軍人でした。太平洋戦争前はいわゆる関東軍に所属。ノモンハンにも従軍しました。太平洋戦争が始まる一年くらい前でしょうか、広島の宇品に転属になります。太平洋戦争中は、太平洋の海上と南方の島々で従軍したようです。船が沈められ、九死に一生を得たなんて話を聞いたことがあります。1945年の8月6日には宇品にいたそうです。私の想像に過ぎませんが、恐らくはもう乗り込む船が残されていなかったのではないかと想像します。運命の8時15分。当時佐官だった祖父は、一段高い場所で、朝の訓令かなにかをしていたようです。そして突然、壇上から吹っ飛ばされたそうです。その際、背中に傷を負ったようです。

母たちは福山で難を逃れる

私の母を含む、祖父の家族は当時福山の「みのみ?」というところに住んでいたそうです。地図で見てみると広島から距離がありますが、母も叔母もそういうので間違いないのでしょう。母は当時三歳でしかないのですが、焼夷弾が降り注いだ記憶はあると言います。高台に住んでいたので、高いところに焼夷弾が落ちると考えた祖母に連れられ逃げ回ったそうです。おかげさまで私が生を受けることができました。原爆については祖父から聞くまで気づかなかったそうです。

広島の後片付け

祖父の軍歴では、1945年には材料廟長となっていたと思います。先に申した通り、乗り込む船もなくなり、事実上失職状態だったのではないかと想像しています。8月6日以降は忙しかったようです。言葉が適切ではないかもしれませんが、広島の街の後片付けに忙殺されることになります。佐官ですから、中心的に活動したのではないかと。将官がそのような仕事をするイメージがわかないものですから。とにかく、終戦後も数か月に渡って広島に残り、仕事に取り組んだようです。余談があります。これは当時幼かった母の記憶違いではないかと私は思うのですが。どのタイミングでの話なのかもわかりませんが、祖父に広島電鉄の社長に就任しないかと依頼があったが、断り帰郷したと言うのです。何度も聞かされた話なのですが、ちょっと信じられないのです。ごめんね、内心信じていなくて。

帰郷後

祖父は田舎に帰り、農業に従事します。自衛隊の発足時に帰ってくるよう誘われたそうですが固辞したそうです。祖父はいわゆる兵隊元帥と呼ばれる、二等兵から佐官になった人で、歴戦の勇士と呼んで差し支えない人物だったと思います。ノモンハンの激戦でも金鵄勲章を貰っています。軍歴を考えると、防衛大学の教官職などが待っていたのではないかと想像します。

原爆が落ちた際に、祖父が背中に負った傷は何十年物にも渡って治癒することがなかったようです。大きく腫れ上がり、家族は放射能の影響を心配したそうです。しかし、それ以外に健康上の問題が出ることもなく、無事に長寿を全うされました。

私が幼い頃の祖父の記憶は、とにかく優しかったことと、よく日本刀を布のようなもので拭いている姿が印象に残っています。スキンヘッドで体格の良い祖父が日本刀を磨く様は、子供心に畏敬の念を覚えました。「戦争はしたらアカン」そう言われた記憶があります。母は小学生のころ、学校から帰宅し、何かを祖父に話したところ「お前はアカに染まっている」と血相を変えて怒られたそうです。母は何を言ったのかは覚えていませんが。戦後の農業従事者としての祖父は多くを語りませんでしたが、反戦意識と共産勢力に対する恐れを抱いていたのだと思います。

私にとって残念なこと。幼かったので仕方のないことですが、直接最前線で戦争を経験した祖父に話を聞く機会を逃したこと。残念でなりません。

 

広島、長崎の次はお盆ですね。お爺ちゃんに話を聞けないもんかな。